2009年07月01日

神武天皇の即位年月日は

神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。

『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。

太陽暦(グレゴリオ暦)が1873年(明治6年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。
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干支年は、後漢の建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返しており計算できる。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。

2009年06月13日

光速(こうそく)は、光の速さのことである

光速(こうそく)、光速度(こうそくど)は、光の速さのことである。真空中における光速の値は 299,792,458 m/s(≒30万キロメートル毎秒)。一般的に記号cで表わされる。これはラテン語で速さを意味するceleritasの頭文字である。現代の国際単位系ではメートルが光速により定義されている。俗に「1秒間に地球を7回半回る速さ」ともいわれる。光速度は電磁場の伝播速度でもあり、マクスウェルの方程式で媒質を真空にすると光速が一定となるということが相対性理論の根本原理になっている。

重力作用も光速で伝播することが相対性理論で予言され、2002年に観測により確認された

ガリレオ・ガリレイは、原始的な方法で光速度の測定を試みたが光速があまりに速い為に、果たせなかった。
1676年にデンマークの数学者オーレ・レーマーは木星の衛星が木星に隠れる周期の変化と木星までの距離から光速を計算し約22万 km/s という値を得た。
1729年にブラッドリーは季節による星の光行差から光速を求めた。
1849年にフィゾーは地上で 8.6 km の距離を光が往復する時間を回転歯車を使って測定し、そこから光速を求めて31万3000 km/s という値を得た。
1850年にフーコーは回転ミラーを使った光速の測定を行った。
1873年からマイケルソンはフーコーの方法を改良して光速の測定を続けた。
その後マイクロ波を使う方法、レーザーの使用などにより測定の精度が高まった[2]。

1983年には、国際度量衡総会により、真空中の光速が299792458 m/sと定義された。
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光速は、物質中では真空中よりも遅くなる。屈折という現象がおきるのは、光速が媒質によって異なるためである。また、物質中の光速よりも速い速度で荷電粒子が運動することが可能であり、このときチェレンコフ放射が発生する。

物質の絶対屈折率は、真空中の光速をその物質中の光速で割った値で定義されている。たとえば水の屈折率は可視光領域波長で約1.33、真空中の光速度は約30万km/sであるから、水中での光速度は約22.6万km/sとなる。

一般に、あらゆる情報や物質は、真空中の光速よりも速く伝播することは不可能であるとされている。相対論の方程式によれば、光速よりも速く移動する物体を仮定すると、実数で表すことのできない物理量が現れる。しかし、光速よりも大きな速度が出現する物理的状況というのは数多く存在する。

2009年06月09日

小田原城開城の際、隠居の氏政及び氏照は切腹

小田原城開城の際、隠居の氏政及び氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎処分中とはいえ大名待遇の1万石を家臣や家の維持費用に給されていた。翌1591年、領土喪失のショックで鬱状態だったと言われる[要出典]氏直は疱瘡で死去。近いうちに国持大名として氏直が再封される予定があったともされている。氏直の遺跡は養子の氏盛(叔父氏規の子)が継いだ。実子に氏次がいたとされるが、実在は疑問視されている。氏直の義父であり、同盟関係にあった家康が天下を掌握すると、縁故の数家が再興されている。

10万の動員を可能とした北条の戦力は伊達氏・北条氏・徳川氏・長宗我部氏、織田信雄を結ぶブロックの形成をも見据えた構えを示し、関東自立を目指した。
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早雲の代に上杉配下の幕僚であった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用し、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模であり、鉄砲の導入にも積極的であった。

また小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。各城はランク付がなされ、城主は人事異動・昇降格により配置換えがなされるという、近代的なシステムであった。

技能集団として「忍者」の実態には諸説あるが、傭兵や後代の賤民集団に繋がる人達であったと解釈される場合が多い。例外的に当家の風魔小太郎は「歴(れっき)とした士分」として国政に参加していた記録が残っている。

内政に優れた大名として知られている。早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際などに大掛かりな検地などを行うことで在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、飢饉の際に減税を施すなど公正な民政により安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。

家庭内において、正室が重んじられ一族のほとんどが同母兄弟となっている。これらの政策により、末期の混乱に至るまでは家臣の離反や継嫡騒動の見られない希有な戦国大名だった。近隣の武田氏、今川氏などの家中が混乱を極めたことと比すると特長が映える。

東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など血筋を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や虎の印判による文書官製など創業時の室町幕府系家臣団由来によるシステムの整った官僚制をもって力を蓄えた。飢饉の年次に家督交代して徳政令を施すなど、地方にあっては極めて稀有な組織的に洗練された家中体制であったと評価できる。

2009年04月25日

カシュタ王(Kahsta)

カシュタ王(Kahsta)とその次のピイ王の下で王国の本拠地ナパタはとても有力になった。ピイ王はエジプトを征服し、エジプト第25王朝を建国した。

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紀元前671年にアッシリアが侵攻したとき、クシュはエジプトから撤退した。紀元前591年プサメティク(Psammetik)2世治世下のエジプトがクシュに進行した。おそらくクシュの支配者アスペルタ(Aspelta)がエジプトに進行する準備をしていたためで、エジプトはすぐに撤退した。

アスペルタの後継者が彼らの首都をナパタよりずっとかなり南のメロエに持っていたのは記録から明らかだ。遷都の正確な日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中だと信じている。他の歴史家達は王国を南にやったのは、鉄の鉱山の魅力だと信じている。メロエ周辺にはナパタと違って、溶鉱炉を燃やすことが出来る大きな森がある。地域のいたるところにギリシャ人商人が到達したことはまたクシュがもはやナイル沿いの交易に依存しているのではなく、むしろ製品を東の紅海へ輸出し、そしてギリシャ人が植民都市と交易していたことを意味する。

他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。

紀元前300年ごろ、王がナパタの代わりにメロエに埋葬され始めてから、メロエへの遷都はより完璧になった。ある学説はこのことは王がナパタに本拠地を置いた神官たちの権力から離れたことを表しているとする。紀元前1世紀頃の歴史家であるシケリアのディオドロスは、神官達によって自分自身を殺すよう命ぜられたが、伝統を破って神官達を代わりに死刑にさせたエルガメネス(Ergamenes)という名前のメロエの支配者について物語を語っている。ある歴史家達はエルガメネスはアラカマーニ(Arrakkamani)というメロエに埋葬された最初の支配者の事を言っているのだと考えている。しかしながらもっとありそうなことに、エルガメネスの音訳はアラカマニ(Arqamani)だ。彼は、長年統治した後王室の埋葬地をメロエに開いた人物だ。他の学説に首都は常にメロエだったというものもある。

クシュは数世紀続いたが、私達はそれに関してほとんど情報を持っていない。初期のクシュはエジプトのヒエログリフを使っていたのだが、メロエは新しい文字を発達させ、メロエ文字で文章を書き始めた。メロエ文字はいまだに完全な判読はなされていない。国は近隣国との交易や、遺跡や墓を作り続けながら繁栄し続けていたようだ。紀元前23年にローマ帝国のアエギュプトゥス総督、ガイウス・ペトロニウス・ポンティウス・ニグリナス(Gaius Petronius Pontius Nigrinus)がヌビアの南部エジプトへの攻撃に対してヌビアに侵攻した。侵攻はその地域の北部を略奪しながら、北へ帰還する前紀元前22年にナパタを負かした。

クシュの衰退は物議をかもしている。ネロ帝の治世下で外交使節がメロエを旅している (Pliny the Elder、 N.H. 6.35)。 紀元2世紀後、王室の墓は規模と豪華さに関して縮小し始めていて、そして大きな遺跡の建築は取りやめられた様である。王室のピラミッドの埋葬もまた紀元4世紀半ばには終わった。考古学上の記録は未知の集団或いはバラナ(Ballana)文化として知られている新しい社会への文化的変化を示している。

このことは西暦350年ごろエチオピアのアクスムからのエザナ王の侵攻によって王国が破壊されたという伝統的な学説とほとんど一致する。然しながらエチオピアの文書では彼らがすでに支配していた土地の反乱を鎮圧したことを描写しているが、ヌバ(Nuba)の事を述べているのみで、メロエの支配者については何も言及していない。

したがって多くの歴史家の学説はこれらのヌバはローマが呼ぶところのノバタエ(Nobatae)と同じ住民であるとする。Straboはローマ帝国が西暦272年に北部ヌビアを引き倒したときかれらはノバタエを権力の空白を埋めるために招待したと報告している。他の重要な要素はBejaの祖先であると考えられているBlemmyesである。彼らは砂漠の戦士ローマの領地を脅かしてそのためにもっと防御できるような境界へのローマの撤退を引き起こした。紀元4世紀の終わりに彼らは何とかヌビア南部のKalabshaのあたりのナイル川流域の一部を支配していた。

6世紀までにかつてメロエによって支配されていた地域に新しい国が作られた。それはほとんど確かにノバタエという国がノバティア(Nobatia)と言う国に進化したもののようで、そしてまたバラナ文化の影響下にあって、他に二つの新しい国がその地域に興った、即ちマクリア(Makuria)とアロディア(Alodia)で非常に似ていた。一方で西暦450年ごろヌバ(Nuba)の王によってベジャ(Beja)は砂漠に追放された。これらの新しいヌビアの国々はクシュから多くのものを受け継いでいたが、また非常に異なってもいた。彼らは古ヌビア語を話し、コプト語のを基にした文字を使っていた。つまりメロエ語とメロエ文字は完全に失われたようである。

メロエに置き換えられたNuba/Nobataeの起源は不確かである。それらは西から来て彼らの文化と言語を入植した人々たちに征服と威圧した遊牧民の侵入者かもしれない。ノバタエは実のところ土着の人たちで、そして数世紀の間メロエの指導者に支配されていた地域であるナパタの現地人であると。そしてノバタエという言葉は直接にナパタという語を指すのだとP.L.Shinnieは推測している。

聖書中でのクシュ王国
この文明に与えられた名前は、旧約聖書に述べられた東北アフリカに移住したハムの息子の一人クシュに由来している。聖書から、エジプト南部とエチオピアの一部を含む大きな地域がクシュ王国として知られていたことがわかる。聖書はしばしばクシュ王国について言及している。このクシュ王国というのは南アラビアにあったと主張する人もいる。

2009年04月07日

サザン・ロック

サザン・ロック(英:Southern Rock)は、カントリー、ヒルビリー、ブルースなど、アメリカ南部の土(泥)臭い音楽を前面に押し出したロック。60年代から80年代にかけて、ロック・ミュージックがさまざまに細分化していく過程で出来たカテゴリーの一つ。サザン・ロックの中で、もう少し泥臭さを強調したものは、別にスワンプ・ロックと呼ばれたりもする。

特徴 [編集]
バンドの場合、メンバーの多くが旧アメリカ南部連邦諸州出身である
地元意識を強く打ち出しており、故郷を称える曲を持ち歌としている。
"Dixie"という言葉はその象徴として使われる。
リーダー(格)は白人
ギター3人、ドラムス2人など大人数で圧倒する
バンドに兄弟など血縁者同士がメンバーである事が多い

代表的なミュージシャン・グループ [編集]

1960年代 黎明期 [編集]
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルCreedence Clearwater Revival
ザ・バンドThe Band

1970年代 最盛期 [編集]
テネシー州出身

チャーリー・ダニエルズ・バンド Charlie Daniels Band
フロリダ州出身

モリー・ハチェット Molly Hatchet
ブラックフット Blackfoot
レーナード・スキナード Lynyrd Skynyrd
ヴァン・ザント Van Zant
ザ・ロッシントン-コリンズ・バンド The Rossington-Collins Band
38スペシャル 38 Special
ジ・アウトロウズ The Outlaws
ジョージア州出身

オールマン・ブラザーズ・バンド The Allman Brothers Band
デュエイン・オールマン Duane Allman
グラインダー・スウィッチ Grinderswitch
アトランタ・リズム・セクション The Atlanta Rhythm Section
ディキシー・ドレッグス Dixie Dregs
シー・レヴェル Sea Level
サウスカロライナ州出身

マーシャル・タッカー・バンド
アラバマ州出身

ウェット・ウィリー Wet Willie
アーカンソー州出身

ブラック・オーク・アーカンソー BlackOak Arkansas
テキサス州出身

エドガー・ウィンター・グループEdgar Winter Group
ZZトップ ZZ Top
ポイント・ブラック Point Blank

1980年代 〜 現在 [編集]
ジョージア・サテライツ The Georgia Satellites
ブラック・クロウズ The Black Crowes
ワイドスプレッド・パニック Widespread Panic
ガヴァメント・ミュール Gov't Mule
キングス・オブ・レオン Kings of Leon

ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

パソコンの普及とインターネットブーム

ここまでのパソコンを中心とした音楽制作には、プロ用途にはMacintoshやAmiga、ATARI(もっとも当時はそれ以上に専用シーケンサー機が広く使われていた)、DTMとしてはPC-98が主に使用されていた。

Windows 95の発売以降、パソコンがより実用的かつ簡単になり、安価に入手できるようになったのは言うまでもない。パソコンの普及は、もちろんメーカーにとってはDTM分野の顧客が増加することを意味する。ローランドのSCシリーズを同梱したパッケージ製品であるミュージ郎、ヤマハのMUシリーズを同梱したパッケージ製品であるHELLO!MUSIC!による販売競争が展開され、MS-DOS時代からMIDIコーナーを設置していたSofmap以外にも一般的なパソコン量販店でもDTMコーナーが設けられるようになる。同梱されたシーケンスソフトはCakewalk、Singer Song Writer、XGworks等が有名である。

パソコンの普及に伴ってインターネットも急速に広がり、オリジナル楽曲や既存曲のコピー/アレンジ楽曲のMIDIファイルをWebサイトでコンテンツとして配布することが多くなる。GM形式で配布されているデータもあったが、より多彩な表現を可能とする上位規格であるGSやXGの形式を採用する制作者も少なくなかった。この場合、結局聴く側も制作者と同じ規格のMIDI音源を持っている必要がある。ローランドのSCシリーズはSC-55時代から、DTM音源のデファクトスタンダードを確立しており、スムーズにこの時代に販売されていたSC-88、SC-88Proに移行が進み大ヒットし、DTM音源の代表的存在となった。SC-88、SC-88Proは1台の音源で多くのパートを演奏させるという形態にベストマッチした音色の調整など全体的な完成度が高く、現在でも愛用者は多い。この頃には、簡単なMIDI音源であれば一般的なパソコンのサウンドカードに内蔵したり、ソフトウェアでその機能を実現することができるようになったため、特にテレビゲームの楽曲を再現したデータを制作・公開したり探索・鑑賞するコミュニティが賑わった。

後発のXGは、音色エディット方法やエフェクトの細かな指定ができ、表情豊かなMIDIデータ作成可能という定評はあったものの、この時代でもGSに取って代わるまでのヒットはできなかった。しかし、MU80、MU100といったローランドのSC-88、SC-88Proの対抗馬としてリリースされた製品はそれら以上のスペックを持ち、現在でも愛用者が多い。ヤマハはシーケンサー専用機のQYシリーズや小室哲哉がプロデュースするワークステーションタイプのシンセサイザーEOSといったDTMが普及する以前からのヒット商品や、電子ピアノ、エレクトーンなどDTM以外の電子楽器をXGに対応させるモデルチェンジを行っていき、外堀を埋めていったことが、XGが一定の普及を見せた要因と考えられる。

また、コルグ社は96年にNS5RというGS、XG両方の音色配列を持つ音源モジュールを発表し、その後、それにヤマハ純正のXG音源ボードを搭載したNX5Rという機種を出したが、本格的にDTM市場に参入するのが遅かったことによるシェア獲得の失敗、そしてTRINITY、TRITONといったプロ用シンセサイザーのヒットによって早々とDTM市場から撤退する。

ブロードバンドの到来と音源、コンピュータの高性能化 [編集]
MIDIファイルがインターネットで多く配布されるようになったもう一つの要因として、音声データそのものと比較して圧倒的にデータ容量が少ないことが挙げられる。しかしインターネットのブロードバンド化が進んで大容量データを高速に送受信できるようになり、データ容量の差に対する感覚は徐々に解決されてゆく。

加えて、パソコンの高性能化によって手軽にオーディオデータが扱えるようになり、制作したデータの容量を圧縮するMP3などの圧縮フォーマットが広まったことで、MIDIファイル(つまり演奏情報)ではなく音声そのものを録音して公開するという選択肢が現実的になってきたのである。ブロードバンドの普及に伴ってMIDIファイルを配布するサイトが減少し、そのようなコンテンツを扱うコミュニティも人気が無くなっていく状態となった。音声ファイルを公開する場合、制作側と聴く側のMIDI環境を統一しなくても良いため、標準規格を持ついわゆるDTM向けの音源を必ずしも導入する必要は無い。このため、制作した楽曲を公開したいと考える制作者も前述のようなSCシリーズやMUシリーズ以外を選ぶことができるようになった。

このような流れを反映してか、メーカーの戦略にも変化が生じる。例えばSD-90等の近年のローランドのDTM音源は、MIDIだけでなくオーディオデータを扱えるという点を売りにするようになった。しかし、SD-90はかつてのデファクトスタンダードであったSC-88ProやSC-88VLに比べて普及しなかった。SDシリーズ最高峰のモデルSD-90、SD-80は最大同時発音数128音というSC-88Proの2倍の発音数を持ち、内蔵する波形データこそ違うものの、プロ用シンセサイザーと同等の音源エンジンを搭載していると言われているが、ここまでのスペックはユーザには逆に過剰と思われたのか、それとも、SD-90/80にはSC-88/SC-88Proと直接互換性のある音色モードが用意されていなかったせいか買い換えが進まず、SC-88ProやSC-88VLは現在でもなおMIDIデータ作成における標準的位置を占めている。

また、SD-90と同時期のヤマハのDTMフラッグシップモデルであるMU2000は、ユーザーが独自に音色を追加できるサンプリング機能をはじめとして、AN音源やVA音源といったDSPで発音する拡張音源ボードをオプションで取り付けることができる。しかしそれらの機能を全て発揮させようとすると、DTM音源で重要とされる、異機種間の演奏データの互換性が損なわれることになる。これはDTM音源の最高位モデルとプロ用のシンセサイザーモジュールとの垣根が曖昧になりつつあることの好例であるといえる。

ヤマハ社の音源モジュールはかつて非常にラインナップが多かったが、DTMにおけるフラッグシップモデルであったはずのMU2000は単体製品としての製造は完了し、プロ向けシンセサイザーモジュールMOTIF-RACK ESと、ディスプレイ無しのXG音源MU500という製品構成となっており、パワーユーザーにはシンセサイザーモジュールを、初心者には安価なDTM音源を、という選択肢になっている。

同様にローランド社もDTMにおけるフラッグシップモデルであるSD-90/80の生産は完了し、ディスプレイなしのSD-20のみのラインナップとなり、プロ向けにシンセサイザーモジュールFantom XRを発売している。

1998年にはGS、XGのお互いの規格のGMからの拡張部分を統一したフォーマットとしてGM2が制定されたが、ブロードバンドの普及によってMP3などの圧縮音声ファイルフォーマットによる配信が一般化したこともあり、普及には至っていない。

また、ヤマハのXG音源の一つMU2000EXでは正式にGSをサポートし、さらにローランドのGS音源の一つSD-90も正式にXGLite(XGの簡易フォーマット)をサポートするなど、2つのライバル会社間の異なる規格がさらに歩み寄りを見せた。

DTMのこれから [編集]
一般的なパソコンでもハードディスクレコーディングが可能な性能に追いつき、初心者向けシーケンスソフトでもMIDIだけでなくオーディオを扱うことができるものが多くなって来ている。しかも、ソフトウェア上で高性能なシンセサイザーやエフェクター等をもシミュレート可能になったことで、パソコンとソフトのみでも品質の良い楽曲を制作できるようになる。然るべき機材を用意すれば、演奏を録音したりそれを任意に編集したりといった、一昔前では高価な機材やソフトがなければ行えなかったような作業もある程度可能になった。

かつてはMIDIおよびMIDIファイルがDTMの中心であったが、「DTM」を意識する必要が無くなってきたことから、CubaseやDigital Performer、Logic等のDAW(これらのソフトも元をただせばATARIやMac上のMIDIシーケンサーソフトにオーディオ処理機能を追加したものではあるが)を選択する制作者も増加し、プロ向けソフトを作ってきたメーカー側も初心者を取り込むための戦略を打ち出している傾向にある。

また、前述のブロードバンドの普及やMP3などの音声データ圧縮技術の普及、およびDTM音源のもつ役割の変化などといった理由により、DTMユーザーにはSCシリーズやMUシリーズ以外の選択肢ができるようになったため、プロ用として設計・製造されたシンセサイザーのモデルチェンジの速さは以前と変わらないにもかかわらず、一方のDTM音源は各社が競って出していた93年から97年頃に比べモデルチェンジは鈍化しており、4〜5年前に発表されたモデルが現行機種であるケースが多く見受けられる。

ヤマハのXG SOUND WORLDが2001年をもって終了し、以前はDTMコーナーを置いていた家電量販店ではそのスペースがPC用スピーカーのコーナーにリニューアルされるなど90年代中頃に比べれば、ブームとしてのDTMは一旦収束した。

しかし2007年に初音ミクが発売され、動画投稿サイトを中心にVOCALOIDブームが起こる。こうした現象をDTMブームの再来と呼ぶ向きもある。

ドリーム ミリバ すぐき菜 ちそう パンプ ハーフ カバー しゃるどね リニュ バイオ カリソウ ノータック キシャー スモー スンドゥ ずっき じゅんか チンチラ ブタジ カーネ ロゴ チェック アクシオン ロメン 銀色の雨 マスタ ミーゴー パエリ きんあか ディン ワスプ ハロー ジスト パレード たーつぁい オテコ オープン たまりん ジャグ メラノ カーコン ツガWEB アプリ オービタル ハーフ ナビ夕立 エスアイ つくし プレイシ ハイブ


また、通信カラオケや携帯電話の着メロ音源としてDTM音源の規格が利用されているといった形で日常生活にとけ込み、これらの環境は社会のインフラとして定着したとも言える。

2009年03月23日

軌間可変電車

軌間可変電車(きかんかへんでんしゃ)とは、線路の幅(軌間)に合わせて線路上を走行可能な電車である。

スペインで、軌間の異なる高速新線と在来線の直通運転を2006年より開始した、レンフェ120系電車Alvia。
日本で開発中の軌間可変試験電車(フリーゲージトレイン)。本項目で詳述する。

軌間可変電車(きかんかへんでんしゃ) は、線路の幅(軌間)に合わせて線路上を走行可能な試験電車。フリーゲージトレイン(Free Gauge Train,FGT)ともいうが、これは和製英語で、英語ではGauge Changable Train またはGauge Change Train,(GCT) という。日本では、主に標準軌 (1435mm) と狭軌 (1067mm) の両方の線路上を走行可能な車両を開発するべく、国土交通省の施策で日本鉄道建設公団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の委託によりフリーゲージトレイン技術研究組合が開発を進めている。

この技術を用いて、標準軌の新幹線と狭軌のままの在来線を直通運転する列車を運行することで乗換えが不要となり、利用者の負担軽減を図ることができる。フル規格新幹線に対しては所要時間の面で格段に劣るが、新規路線の建設用地確保が不要であるため建設コストや建設期間は大幅に抑えることができる。また、ミニ新幹線のように改軌による在来線のネットワークの寸断も生じない。このため、実用化されれば新規のミニ新幹線が建設される可能性は低くなる
異なる軌間を直通するために、軌間の異なる線路を接続するように設置された軌間可変装置を通過する間に、車輪を車軸方向にスライドさせて両方の軌間に設定できる軌間可変車軸を持つ。車輪と一体となったダイレクト・ドライブ・モーター(DDM)を用いたもの、平行カルダンとスプラインを用いたものなどの機構が試行されている。

日本における開発状況 [編集]
オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

要素技術開発 [編集]
1993年3月、タルゴ社は、日本で台車をつくることについて住友金属工業に軌間可変車軸のライセンスを与えた。
1994年より鉄道総合技術研究所が台車や軌間変換の基礎技術開発を進めた。

第一次試験車両 [編集]
1998年、GCT-01型として製造される。3両編成。所有は鉄道総合技術研究所(JR総研)
1999年1月、山陰本線(米子?安来)で走行試験(時速100km/h)
1999年4月?2001年1月、アメリカ合衆国コロラド州TTCIプエブロ実験線で、標準軌での高速耐久試験を実施。最高速度246km/h、累積走行距離600,000km、軌間変換回数2000回を達成。
2001年11月、日豊本線で基本走行試験
2001年12月?2002年1月、新下関保守基地で軌間変換試験
2002年2月、日豊本線で基本走行試験
2002年7月?9月、新下関保守基地で軌間変換試験
2002年10月?11月、日豊本線(西小倉?新田原、別府?佐伯)で在来線の速度向上試験(130km/hを達成)
2003年5月?6月、予讃線で走行試験
2004年8月23日?10月28日、山陽新幹線で新幹線での走行試験、新山口?新下関間を15回に渡って走行(最高速度210km/hまでを試験)
2006年までに試験が終了し、JR九州小倉工場内に留置されていたが、2007年4月以降はJR四国多度津工場内に移動している。
試験車のGCT-01は「車両」籍を持っていない。保守用のモーターカーと同じ扱いなので、試験時には線路閉鎖をしなければならない。

新下関駅構内に直流1500V・交流25kV(60Hz)のデッドセクションと軌間可変装置が設置されている。

編成
GCT01-1:1両目先頭車(M'c1→Mc1) 川崎重工業
GCT01-2:中間車(M1) 近畿車輛
GCT01-3:2両目先頭車(M'c2) 東急車輛製造

第二次試験車両 [編集]
2002年8月、フリーゲージトレイン技術研究組合発足
2003年、二次車両開発着手
2006年10月、JR四国多度津工場にて二次車両の台車走行試験
2007年3月5?7日深夜、東京都国分寺市の鉄道総研から小倉工場へ輸送された
2007年12月9日小倉工場-西小倉駅間で在来線の走行試験を開始
在来線での走行試験後に、新八代駅構内で軌間変換試験を行ったあと、九州新幹線鹿児島ルートで高速耐久試験を2年間行う予定である。

一次車両より軽量化された台車となり、振動・揺れが軽減され、乗り心地の改善が図られている。3両編成となっており、新幹線区間での最高速度は275km/h、在来線区間で130km/hが目標とされる。

新八代駅構内に新在直通試験線と交流25kV・20kV(60Hz)のデッドセクション、軌間可変装置が設置されている。

2007年5月27日、鉄道建設・運輸施設整理支援機構により、JR九州小倉工場で、試験車両が報道公開された。3両編成。オール電動車(在来線区間交直両用)。車体はアルミニウム合金製。営業運転を意識し、中間車に座席が設けられた。軌間可変装置は1次車で2種類設けられた駆動方式が平行カルダン駆動に統一された。一方で、ブレーキシステムはディスクブレーキ(1、2号車)と、原動機内にブレーキを持つばね間ブレーキ(3号車)の2種類が設けられ、双方の有用性をはかる。高速性能を高めるために先頭形状をより抵抗の少ない流線型にし、各種機器の簡素化を図って車体が軽量化された。1、2号車に新在兼用の低騒音パンタグラフが搭載された。空気ばねが利用された電子制御の車体傾斜装置が備えられた。新車両の開発費は1編成約30億円。小倉工場で基本的な安全性を確認したのち、8月までに日豊線で走行試験が開始される予定であったが、機器類の調整で12月まで延期された。新幹線区間の走行試験の時期、区間などは未定。

第三次車両 [編集]
営業車両となる三次車両による実用化は2010年とされていたが二次車両の開発が2004年度完成という当初見込みより遅れている。

2009年03月08日

オランダ領東インドでは

オランダ領東インドでは、1911年に結成されたサレカット・イスラーム(イスラーム同盟)が第一次大戦期から民族の団結をうったえて植民地支配に抵抗したが、大戦後はオランダの弾圧によって力を弱めた。これに対し、同盟内の左派が中心となって1920年にインドネシア共産党が組織された。これは、合法政党としてはアジア初の共産主義政党だった。共産党はインドネシア各地で反植民地蜂起を指導するなどの活動を展開したが、これも大弾圧をうけ、ほぼ壊滅に近い状態となった。その後、オランダから帰国した留学生が独立運動を主導し、1927年にはスカルノを党首とするインドネシア国民党(PNI)が結成された。スカルノは、マルクス主義における階級闘争という考え方にはなじめず、農民のもつエネルギーを「マルハエニスム(大衆主義)」というかたちで民族解放闘争へとふりむけようとしたといわれる。

1928年にジャカルタで開かれたインドネシア青年会議では、党派をこえた青年が集まり、「青年の誓い」を採択した。そこでは、共通の祖国・民族・言語の名として「インドネシア」をえらぶことを再確認し、紅白二色の国旗が掲揚され、スプラットマン作詞作曲「インドネシア・ラヤ」が場内に流れた。オランダ当局はこれに衝撃をうけ、以後「インドネシア」の語を用いただけで演説を中止させ、集会を解散させたという。

1930年、スカルノは逮捕され、それによってインドネシア国民党は分裂した。

日本の植民地と東アジア
タプコル公園のレリーフの1枚ヴェルサイユ条約によって、アジア諸民族の独立が達成されない事が明らかになると、日本の支配下に置かれていた地域でも独立を求める機運が高まった。一つが、朝鮮半島で起こった三・一独立運動、もう一つが中国で起こった五四運動である。

1919年3月1日、タプコル公園から始まったこの運動は、デモ回数で1542回、延べ参加人数は205万人に上った。この運動に対して、当時の朝鮮総督府は、徹底的な弾圧を行い、5月には沈静化した。その後、光復まで朝鮮半島では大規模なデモ行動が起こることはなかった。

一方、中国の運動は、大戦中の1915年、日本政府が中華民国政府にいわゆる「対華21ヶ条要求」を突きつけたことにより、中国国内で反日感情が高まっていた。そのような環境の中で袁世凱は日本の要求を受諾した。そして、袁世凱は弱体化している中国を再建するには専制的な指導者が必要であるとして1916年皇帝となったが、蔡鍔らが護国戦争を起こし、袁世凱は国民の反発を受けて失脚し、中国は軍閥が割拠する時代となった。

ヴェルサイユ条約で日本がドイツの対中権益を承継することが判明すると、北京大学の学生を中心に講和条約の不調印を要求し、5月4日天安門広場で決起した。最終的には、民国政府はヴェルサイユ条約の批准を拒否した。

中国では、ナショナリズムを高揚する思想家、知識人が現れ民衆にも思想を広めていった。陳独秀は1915年雑誌『新青年』を刊行し、その中で胡適は白話運動を展開し、平易な中国語で思想を伝え、李大釗は社会主義思想を伝えた。魯迅は『阿Q正伝』で現状の中国人の蒙昧さを伝えたが、雑誌『新青年』は社会主義を批判する胡適と、受容する陳独秀、李大釗の対立により、1921年に刊行終了となった。

ナショナリズムの高揚を革命運動に取り込むことを考えた孫文は、1919年中華革命党を改組し、中国国民党を結成し、護法運動を展開、広東軍政府非常大総統に就任した。一方、1921年になるとコミンテルンの指導の下、陳独秀、李大釗、毛沢東らは中国共産党を結党した(中共一大会議)。1922年6月、孫文は広東軍の領袖陳炯明と対立し、広東軍政府を追われた。後に陳炯明の勢力を駆逐すると、孫文は上海でソ連のアドリフ・ヨッフェと会談し、「連ソ容共」をスローガンとした孫文・ヨッフェ宣言が発表され、第一次国共合作が進められた。

第一次国共合作のなかで、孫文が1925年3月12日肝癌で死亡すると、孫文の遺志を継いだ蒋介石は1926年、北伐を開始した。1927年上海クーデターで北伐は一旦中断し、国共分裂、国民党の内部分裂、日本による山東出兵の干渉が発生したが、最終的には、1928年国民革命軍の北京入城ならびに張学良の易幟により北伐は完了した。張学良の父である奉天派の首魁、張作霖は1928年6月4日関東軍の手によって暗殺された(満州某重大事件)。そして、1928年には孫文が提示した革命三段階の内の訓政に入ったことを宣言した[4]が、蒋介石が権力を掌握する為には、中原大戦に至るまでの国民党内部の抗争を繰り広げなくてはならなかった。

一方、中国国民党から駆逐された中国共産党は、李立三のように都市部での抵抗を試みるものもいたが、毛沢東は中国国民党の勢力が及ばない山間部や農村に解放区を築き抵抗していった。その一例が江西省と湖南省の境にある井崗山である。

世界恐慌と諸国の対応
暗黒の木曜日から世界恐慌へ
アメリカ資本の導入によりドイツ経済は復興し、イギリス・フランスへの賠償支払いが可能となり、イギリス・フランスはこれを対米債務にあてる、という循環が成立したことで、ヨーロッパ経済はひとまずの安定をむかえ、それが各国の国際協調外交の前提ともなっていた。
ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

失業者の行進(カナダ、トロント)ところがアメリカでは1928年から工業生産が下降に転じ、1929年10月24日、ウォール街のニューヨーク証券取引所で株価が突如大暴落した。「暗黒の木曜日」である。

恐慌の背景には、投機熱(合衆国に集中した資金が土地や株式の投機に使われたこと)ばかりではなく、過剰な工業生産に大衆の購買力が追いつかなかったこと、保護貿易政策による国際貿易の低迷、農業が危機的状態にあったことなど、「永遠の繁栄」をほこりながらも抱えていたアメリカ経済の構造的な弱さもあった。そのため、恐慌は一時的な現象にとどまらず、長期にわたるものとなった。アメリカでは、多くの銀行や会社がつぎつぎにつぶれ、4人に1人は失業し、多くの農民も土地を失った。

第一次世界大戦後の各国の経済はアメリカと深く結びついていたため、その影響は全世界に及び、とくにアメリカ資本がヨーロッパから引きあげたことからヨーロッパ諸国も金融不安に陥って、かつてない大規模で深刻な恐慌となった。恐慌はその破壊的規模の大きさと期間の長さから、世界恐慌とよばれる。各国の工業生産は激減し、多数の失業者が現れた。

世界恐慌がはじまると、ドイツに投下されていたアメリカ資本がひきあげられ、1931年にはオーストリア最大の銀行クレディート・アンシュタルトが倒産し、ドイツ経済は破綻した。アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、31年、賠償・戦債支払いを1年間停止するフーヴァーモラトリアムを宣言したが、効果は少なかった。フーヴァーは、「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫き、国内においては、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続し、その一方で、対外的にはスムート・ホーリー法のもとでの保護貿易政策を展開し、平均関税率はアメリカ史上最高の水準となった。これにたいしてカナダはただちに報復関税を導入し、それがのちの帝国特恵関税の伏線となった。このように、スムート・ホーリー法は世界恐慌をいっそう深刻にさせた一因であると考えられている。

恐慌は資本主義諸国の経済をゆるがして、政治・社会全体の危機をまねき、各国は国内問題の対応に追われて国際問題への取り組みには消極的になった。1932年から開催されたジュネーヴ軍縮会議は見るべき成果もなく閉会し、国際連盟の活動も低迷した。こうした状況下で、それまでイタリアに限られていたファシズムの思想や運動が改めて着目されるようになった。

2009年02月19日

カラミティガンダム(Calamity Gundam)

カラミティガンダム(Calamity Gundam)は、テレビアニメ『機動戦士ガンダムSEED』に登場する架空の兵器。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

地球連合軍の試作型モビルスーツ(MS)。「カラミティ」とは「疫病神」「災厄」の意。

アズラエル財団傘下の国防連合企業体が、初期GAT-Xシリーズのデータを基に開発した後期GAT-Xシリーズの1機。

初期GAT-Xの1機バスターの系譜に属する砲戦型MSで、トランスフェイズ装甲の採用に伴う余剰電力の大半を火器に回したことで、バスター以上の攻撃力を実現している。

視野の広い後方からの支援砲撃を主任務とする機体特性から、指揮官機としての機能も備える。なお、バスターと同じく格闘武装はほとんど装備しておらず、接近戦は苦手とする。

重量級の機体だが各部の高出力スラスターにより高い機動性を備え、地表、水上をホバー移動することも可能である。 ただし飛行能力は持たないため、大気圏内では同じ後期GAT-X機レイダーの背に乗って移動する。

武装
125mm 2連装高エネルギー長射程ビーム砲「シュラーク」
通常のビームライフルの2倍以上の口径を持つ、背部の連装ビーム砲塔。出力は元より連射性にも優れ、本機の攻撃力を支える主力兵器である。エネルギー供給はバックパック内の大容量ジェネレーターから行われる。シュラークはドイツ語で「衝撃」の意。
337mmプラズマサボット・バズーカ砲「トーデスブロック」
プラズマ化した弾丸を撃ち出すため、通常のバズーカとは比較にならない破壊力を持つ。トーデスブロックはドイツ語で「死刑台」の意。
580mm複列位相エネルギー砲「スキュラ」
胸部中央に内蔵された大出力ビーム砲。イージスと同一の武装。
115mm 2連装衝角砲「ケーファー・ツヴァイ」
シールド表面に設置された迎撃火器。攻防を兼ねた複合兵装防盾システムの一種。シールド先端は接近戦時の打突攻撃に転用される。シールド部はザフトのローラシア級宇宙戦闘艦の装甲部材が参考にされており、高い耐弾性を誇る。

劇中での活躍
地球連合軍のブーステッドマン、オルガ・サブナックが搭乗し、オーブ解放作戦において初めて実戦投入れる。ボアズ攻略戦や、第二次ヤキン・ドゥーエ攻防戦で圧倒的な火力と凶悪な戦い振りで多数の敵機を撃破する。

第二次ヤキン戦においてミーティア装備のジャスティスの大型ビームソードにより、機体を両断されて撃墜された。

ソードカラミティ
諸元 ソードカラミティ
型式番号 GAT-X133
全高 18.26m
装甲材質 トランスフェイズ装甲
武装 15.78m対艦刀「シュベルトゲベール」×2
ビームブーメラン「マイダスメッサー」×2
580mm複列位相エネルギー砲「スキュ
ラ」
コンバットナイフ「アーマーシュナイダー」
×2
ロケットアンカー「パンツァーアイゼン」×2
搭乗者 レナ・イメリア(初号機)
エドワード・ハレルソン(2号機)
フォー・ソキウス(3号機)
地球連合軍が発動した万能機開発計画、「リビルド1416プログラム」の一環で生み出されたカラミティの派生機。接近戦闘仕様に装備の換装を行っており、ソードストライカーに装備された各種装備の改良型を装備する。重火器が撤廃されたことで軽量化され、更に機動性が向上している。またOSはオリジナルとは違いナチュラルにも扱いこなせるものになっている。

X131と同時期に3機がロールアウトしたが、この内初号機はX131を改装する形で完成しており、この機体のみ、改装部分のカラーリング以外はオリジナル機と同じものとなっている。

この初号機はデータ収集用のもので、目的を達成した後は他の装備に再度改装される予定であったが、戦局の推移により結局そのままの装備でデトロイトの国防連合企業体工場に保管されることとなった。後に、南アメリカ独立戦争の際にレナ・イメリアが搭乗し、エドワード・ハレルソン搭乗の2号機と死闘を繰り広げ、相打ちに近い形で撃破されている。

また、3号機にはフォー・ソキウスが搭乗し、2号機と共にビクトリア基地奪還作戦に投入され、絶大な戦果を挙げた。その後3号機はフォー・ソキウスともどもロンド・ギナ・サハクに譲り渡されている。

なお、南アメリカで大破した2機は、プロMSパイロットカイト・マディガンによって密かに改修、修復され、彼のコレクションに加えられている。

武装
15.78m対艦刀「シュベルトゲベール」
「シュラーク」に代わり装備されたビームソード。ソードストライカーと違いこちらは片手用。グリップエンドにビーム砲を内蔵し、マウント状態のままでの発砲も可能である。
ビームブーメラン「マイダスメッサー」
X131の両肩スラスターを排除し装備されたビームブーメラン。
ロケットアンカー「パンツァーアイゼン」
両腕に装着されたロケットアンカー。ソードストライカーの物と同じく、基部は対ビームシールドとしても機能する。
コンバットナイフ「アーマーシュナイダー」
両腿に装備される高周波振動ナイフ。基本的にエネルギー切れの際の予備武装として使用される。
580mm複列位相エネルギー砲「スキュラ」
中距離以上の射撃にも対応するためX131から唯一残されたが、エネルギー消費抑制のため最大出力は70%に抑えられている。

2009年02月03日

金光氏(かなみつし)は、備前国

金光氏(かなみつし)は、備前国でかつての旭川河口に近い東岸の御野・上道付近を本拠地としたと思われる土着の国人領主である。家紋は「丸に二つ引」紋及び「丸に九枚笹」紋が知られているが、他に「丸に梅鉢」「丸に五三桐」「丸に右三つ巴」紋などもある。
ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム

昨今、方々のメディアで余りにも多く「カネミツ」と誤った表記がなされているが、「カナミツ」と呼ぶのが正しい。「カネミツ」と呼ばれる人たちの祖先は金光教(こんこうきょう)の信者が創始者の金光大陣への尊敬の念から姓としたものが起源[要出典]であることが殆どとされる。したがって同じ「金光」の文字で「カナミツ」と呼ぶ人たちは、豪族「金光氏」が祖先である可能性が高いと言える。なお、金光教の教祖の子孫は金光を「コンコウ」と発音する。この金光(コンコウ)は、神の威光を現す神号が由来であり、金光(カナミツ)氏に何らかの所縁があるからという理由で自称したものではない。
出自について詳しい資料に乏しく確実ではないが、戦国期に入ってから大永年間には金光備前が松田氏に属して次第に勢力を伸ばし、旭川西岸の石山にかつて上神氏が築いた石山城(岡山城)を居城(「吉備温故秘録」では大永年間との記述がある)とした。備前は妻である松田元運の姉(讃岐松田系図より)との間に実子が無かったので能勢頼吉の弟である与次郎宗高(「備前軍記」より)を養子に貰い後を継がせた。

金光宗高も養父に倣い松田氏に属していたが、永禄7年(1564年)頃に、松田氏と宇喜多氏が和睦し、浦上氏に付き従い備中国へ出陣する動きを見せると、それを察知した三村氏は金光氏の城に攻め寄せた(永禄6年(1563年)説がある)。その折、金光氏は兵が少なく防戦できない状態であるため心ならずも三村氏に降参しその指揮下に入った。永禄10年(1567年)の明善寺合戦で三村氏が敗れると宇喜多氏の居城である沼城へ出仕し宇喜多氏の指揮下に入った。

元亀元年(1570年)かねてから備前国を領有し、岡山の地に城下町を建設したい野望を抱いていた宇喜多直家に毛利氏と内通していると言い掛かりを付けられ弁明をするも許されず、死後子供に所領を与えることを条件に城を明け渡すと一筆し切腹した。子の金光文右衛門と文右衛門の弟とされる金光太郎右衛門は城を明け渡し宇喜多氏に仕えた。

文右衛門は天正8年(1580年)備中国冠山城攻めの時、勇猛で知られた毛利方の武将湯浅新蔵を討ち取る勲功を挙げ、宇喜多秀家の代に知行900石・本丸御番衆になっている。また太郎右衛門も知行400石になっている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇喜多家が敗北すると、文右衛門と太郎右衛門・安兵衛父子は御野郡古松村(岡山市東・西古松)に隠棲した。

池田光政が藩主をしていた寛文2年(1662年)頃に太郎右衛門の孫である与次郎宗吉と弟の清右衛門の家系は池田氏(岡山藩)に仕官し、微禄で代々仕えた。

幕末には、与次郎宗吉系では金光敬蔵(台所奉行に取立)、清右衛門系では金光等平(郡奉行に取立)などの人物を輩出している。

松田氏の重臣(国人衆)に金光朝勝、金光秀盛、金光安芸守などが居るが金光備前と血縁関係が有るのか無いのか不明である。

「金光宗高系」与次郎宗吉家(与次郎家)・清右衛門家略系図
金光宗高

太郎右衛門

安兵衛
┣━━━━━━━━┓
1与次郎宗吉  1清右衛門
┃        ┃
┃       2市左衛門
┃        ?
┃       3藤之丞
(八代略)     ┣━━━━━━━━┓
┃       4市左衛門 (清之進) 5幸介(市左衛門 (清之進)の養子として相続)
┃                 ┣━━━━━━┓
┃                増左衛門(廃嫡) 6清左衛門
┣・・・・┓             ┏━━━━━┫ 
10敬蔵 岩吉(菅野金光家)   統太郎(夭折) 7等平
┃    ┃ 岡山藩士、勘定方直勤
11正男 粂吉

これは、現時点での研究結果であり、敬蔵と岩吉の関係は現在調査・研究中である。岩吉の家系の方の話では今は系図が紛失しているので不確実だが粂吉の代まで吉の文字を片偉にしていたそうなので血縁はあると推測される。
?は養子。
左端から長幼の順番を見るようにしている。

金光姓人物一覧
血縁の有無に関わらず、宇喜多氏家臣として分限帳(宇喜多分限帳・うきたぶげんちょう)に記載されていた金光姓の人物を列挙する。(「續群書類從本」版も存在するが、ここでは、「吉備拾遺本」版に基づいて記載)

金光助作(かなみつ すけさく) 戸川肥後守の与力。元は、知行160石であったが、慶長2年(1597年)200石加増となり知行360石となる。その後の足跡は不明。
金光六郎右衛門尉(かなみつ ろくろうえもんのじょう) 戸川肥後守の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光彌介(かなみつ やすけ) 長船吉兵衛尉の与力。元は、知行100石であったが、文禄5年(1596年)60石加増となり知行160石となる。その後の足跡は不明。
金光久右衛門尉(かなみつ きゅうえもんのじょう) 長船吉兵衛尉の与力。知行40石。その後の足跡は不明。
金光源左衛門尉(かなみつ げんざえもんのじょう) 長船吉兵衛尉の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光彌三(かなみつ やぞう) 長船吉兵衛尉の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光兵作(かなみつ へいさく(ひょうさく)) 長船吉兵衛尉の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光傳右衛門尉(かなみつ でんえもんのじょう) 浮田左京亮の与力。知行50石。その後の足跡は不明。
金光次郎右衛門尉(かなみつ じろうえもんのじょう) 浮田左京亮の与力。知行50石。その後の足跡は不明。
金光郷介(かなみつ ごうすけ) 岡越前守の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光與八郎(かなみつ よはちろう) 岡越前守の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光宗兵衛尉(かなみつ そうべえのじょう) 浮田菅兵衛尉の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光作内(かなみつ さない) 明石久兵衛尉(明石全登の親類)の与力。知行30石。その後の足跡は不明。
金光源助(かなみつ げんすけ) 明石久兵衛尉(明石全登の親類)の与力。知行20石。その後の足跡は不明。
金光與三右衛門(かなみつ よざえもん) 御台所衆。知行30石。その後の足跡は不明。
金光文左衛門(かなみつ ぶんざえもん) 元は、知行100石であったが、文禄5年(1596年)100石加増。さらに、慶長3年(1598年)300石加増となり知行500石となる。その後の足跡は不明。金光文右衛門の子か否かは不明。

八軒屋金光家と与次郎宗吉家(与次郎家)・清右衛門家との関連性について
児島郡八軒屋村(岡山県倉敷市八軒屋)に金光傳右衛門一族の墓がある。金光清右衛門が岡山藩に提出した奉公書(池田家文庫)に金光安兵衛は関ヶ原の戦いの後、御野郡古松村(岡山県岡山市東・西古松)に隠棲の後、児島郡にて病死と記載があるため、安兵衛の子もしくは弟など一族(血縁関係)の子孫の可能性があるが、真相は明らかにされておらず研究の進展が待たれる。